羊の歌

加藤周一(著) 「羊の歌」「続・羊の歌」 岩波新書

評論家 加藤周一氏の半生を綴ったもので、初出は朝日ジャーナルに自伝的小説として連載された。

「羊の歌」は、羊年生まれの加藤氏が、もの心ついてから終戦までを、「続・羊の歌」は戦後から1960年代までを回想している。

戦前・戦後という激しい時代のうねりを基調に、「平均的な日本人として生きてきた」という加藤氏の人生と社会の姿が描かれている。

加藤氏の文章は緻密で論理的な構成により入試問題などによく使われるが、一方で、五感を活かした詩情性の豊かさという側面も魅力である。

「高原牧歌」で描かれる晩夏の浅間高原の姿と妹への愛情や、「冬の旅」で描かれるオーストリアの街の冬の情景など、きわめて文章が美しい。

「…すすきの穂が私たちの背よりも高く伸び、夕方の風が俄かに肌寒くなり、夏のまさに終ろうとするときに、高原はもっとも微妙なものにみちていた。私と妹は、恋人たちのように、寄添いながら、人気ない野原に秋草の咲き乱れるのをみ、澄み切った空気のなかで、浅間の肌が、実に微妙な色調のあらゆる変化を示すのを見た。夜になると遠い谷間の方から坂にさしかかった蒸気機関車の噴ぎはじめるのが聞え、坂をのぼりきったときに変る音、駅にとまるときの車輪の乱みまでが、静まりかえった夜を通して、はっきりと聞えてきた。その汽車のなかの人々と、私たちとを隔てていた途方もなく広い空間のなかで、眼をさましていたのは、私たち二人だけであったかもしれない。もし私がこの世の中でひとりでないとすれば、それは妹がいるからだ、と私はそのときに思った。私は高原のすべてを愛していたが、それ以上に、妹を愛していたのだ。」(「羊の歌」 高原牧歌より)

「その町の建物の屋根は低くできていて、厚い壁に抉った窓は、舗道に積った雪とすれすれのところに開いていた。二重窓のくもった硝子、黄色く惨んだその窓の光、かすかに聞える内側のざわめきと提琴の歌……街燈のつくる明るい円錐のなかで、降りしきる雪の粉は輝き、風に流れ、絶えまなく舞っていた。それほど美しい雪の町を私は見たことがない、そのまえにも、そのあとにも。一杯の白ぶどう酒とひとりの娘は、私の世界を無限に美しくしていた。」
(「続・羊の歌」冬の旅 より)

私がこの本と出合ったのは、大学時代にフランス語の先生から夏休みの課題として与えられたとき。
戦後を代表する評論家で博覧強記、百科事典の編集長を務め、数か国語に堪能な加藤氏は、決して「平均的な日本人」ではないかもしれないが、多くの人の共感を集め、いまでも岩波新書の中でロングセラーを続けているのも納得できる。