なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた

養老孟司(著) 鵜飼哲夫(聞き手) (中央公論新社 2023年)

読売新聞に連載された「時代の証言者」に、インタビューを加筆増補して生まれた書。

養老孟司氏の日常やこれまでの人生は、NHKテレビ「まいにち 養老先生、ときどき まる」などで断片的に紹介されることはあったが、自伝的にまとめられたのは初めてである。

今まで語られることの少なかった生い立ちから、戦時中、医学生時代、最近の著書まで、何を考え・どう生きてきたか、独特の語り口で伝わってくる文章となっている。

「なんだか知らないけれど、常に一生懸命だった。だれに頼まれたわけでもないのだから、ご苦労様というしかない。」(まえがき より)

都市は脳が自然を徹底的に排除してできあがったもの、話せばわかるなんてウソ、個性とはからだのこと、など、世間の常識に問いを投げかける思想が、どのようにして生まれてきたのかが窺われる。多くの著書のテーマや内容を思い起こしながら読むと興味深い。

「三段跳びのように」話が唐突に飛躍するのも養老孟司氏の特徴であるが、その思想の背景には、ひとつのことを徹底的に突き詰めないと気が済まないという気質があることもわかる。

できれば、養老孟司氏が書き下ろした自伝も読んでみたいものである。

https://www.chuko.co.jp/tanko/2023/11/005712.html

まともバカ ~ そもそもの始まりは頭の中

養老孟司(著) (だいわ文庫 2023年)

2006年にとして発刊された「まともバカ ― 目は脳の出店」の復刻版で、講演録を元に書き起こされたものである。

「バカの壁」「死の壁」など、その後続々と発刊された壁シリーズの原点ともいえる思想が展開されている。

「唯脳論」、「涼しい脳味噌」、「養老孟司の大言論」などの書き下ろしで味わえる独自の文体、行間を読む必要のある論理の飛躍といった特徴は少ない。

一方で、最近の著作に比べると、切れ味は鋭く、講演集ということもあってか、遠慮や忖度が少ないように感じる。

逆説からの問題提起や、脳が作り上げた社会が自然といかに折り合っていくべきかといった視点は一貫している。

https://www.daiwashobo.co.jp/book/b10032183.html

「旅物語」

森本哲郎(著) 「旅物語」 (講談社 1988年)

森本哲郎の20年にわたる旅行記を、著者本人がラジオ放送で朗読し、思い出や感慨を付け加えて出来上がった本である。

「文明の旅」や「二十世紀を歩く」など、はじめはジャーナリストとして、その後は作家・評論家として数々の旅行記を著している著者であるが、この人ならではの視点と文章の雰囲気は一貫している。

旅先は、メソポタミア、アテネ、バクダードなど、古代文明の発祥地や歴史上の舞台が多い。
様々な人々と出会い、そこで起きた出来事や当時の人々の生活と、現在の姿を重ね合わせ、変わったもの・ことと、変わらないもの・ことに思いをはせ、時間と空間の制約を超えた、自由な思索が展開される。

自然の情景や雰囲気を伝える表現もすばらしく、添えられた写真にも味わいがある。

古代への情熱~シュリーマン自伝~

シュリーマン(著) 古代への情熱 ~シュリーマン自伝~   (新潮文庫) 

古代トロイやミュケナイの遺跡を発掘したハインリッヒ・シュリーマンの自伝。シュリーマン自身の記述がない部分は編者によって補筆されており、伝記とも読める書である。

ホメロスの叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」に魅せられ、ミケーネ文明の時代にトロイア戦争が実際にあったことを固く信じ、その発見を生涯の目的として生きたシュリーマン(1822‐1890)。

幼少期の不遇な境遇から、実業家として成功し、その資産をもとに発掘に挑み、1871年、ついに地中深く眠っていた古代都市を発見するまでの歩みは、トロイアの実在に対する確固たる信念に支えられたものであったことがわかる。

シュリーマンは語学にも天才的な能力を発揮し、十数ヶ国語を自由に操ったという。音読による語学の習得方法は興味深い。

ラッセル 幸福論

バートランド・ラッセル(著) 安藤貞雄訳 岩波文庫

イギリスの哲学者・数学者のバートランド・ラッセル(1872―1970)による幸福論。

世界三大幸福論の一つで、他の二つはフランスの哲学者アランの『幸福論』とスイスの哲学者カール・ヒルティの『幸福論』である。

1930年の出版で、原題は”The Conquest of Happiness”ー「幸福の獲得」と訳されるが、conquestという語には征服や克服といった意味もある。

はしがきで、本著は「自身の経験と観察によって確かめられた」常識を述べたものであるという。

大きく2部に分かれ、第1部は、過度の競争、他者と自分を比べること、幼時に植え付けられた堅い規範意識などの、幸福を妨げる要因について具体的に述べられており、思い当たる節が多い。

「真っ先になすべきことは、幸福は望ましいものだ、ということを納得することである」
(第1章 何が人びとを不幸にするか より)

「本を読むには二つの動機がある。ひとつは、それを楽しむこと、もうひとつは、そのことを自慢できることだ。」
(第3章 闘争 より)

第2部は、熱意、愛情、仕事、努力とあきらめなど、幸福を獲得するための方法について述べられている。

「たくさんの人びとを自発的に、努力しないで好きになれることは、あるいは個人の幸福のあらゆる源のうちで最大のものであるかもしれない。」
(第10章 幸福はそれでも可能か より)

「人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなり、また、ますます運命に左右されることが少なくなる」
(第11章 熱意 より)

「十分な活力と熱意のある人は、不幸に見舞われるごとに、人生と世界に対する新しい興味を見いだすことによって、あらゆる不幸を乗り越えていくだろう。」
(第15章 私心のない興味 より)

自己の内面を覗き込むよりも、外界に興味を持つことが幸福への道と説くが、その根底には、イギリス人の伝統的な考え方特徴である経験論や、常識があると感じられる。

ラッセルは、「ラッセル・アインシュタイン宣言」で核廃絶を訴えた平和活動家で、大学を追われ投獄された経験もある。
そうした状況に置かれても、幸福になる可能性を探求した人柄は、彼のまなざしからも窺える。

出典:岩波文庫 ラッセル幸福論

はてしない物語

ミヒャエル・エンデ(著) 上田 真而子 訳 , 佐藤 真理子 訳 岩波書店

冴えない10才の本好きな少年バスチアンが、古本屋で目にした本を持ち出し、読み進めるうちに物語のなかに入り込んでしまう。そこから始まる壮大な物語で、「モモ」と並ぶエンデの代表作である。

物語のなかの主人公アトレーユは、いわばバスチアンの理想像であり、様々な困難に満ちた旅を生き抜いて成長し、やがて世界に迫りくる「虚無」に立ち向かう。

何度も舞台が転換し、荒野を馬で疾走し、渓谷や深い森を通り抜け、そこで様々な架空の生き物と遭遇するが、その発想の幅広さ、スケールの大きさに圧倒される。

古老の持っていた書物のなかに、主人公の身に起きた出来事が記されており、それを自分が読んでいて・・・というように、物語は重層化され、時間と空間を自由に行き来し、やがて見事に収斂する。

バスチアンは元の世界に戻り、はてしないと思われた物語は現実世界では一昼夜に過ぎず、古本屋の主人はそのあらましを知っていた。
ぎこちなかったバスチアンと父親との関係も変わってゆく。

この作品を元にした映画(ネバーエンディング・ストーリー)も作られたが、全く別ものと言っていい。

書店ではファンタジーや児童書に分類されているが、年齢を問わず誰でも引き込まれる魅力を持った作品である。

大河の一滴

五木寛之(著) (幻冬舎文庫 1999年)

発行は20年以上前だが、今読んでも心に深い共鳴を呼び起こす本である。
本のタイトルともなった冒頭の「人はみな大河の一滴」の章に、五木氏が語りたいことが凝縮されている。

五木氏は、混迷を深め、悲惨な出来事に満ち、「心が萎える」ような社会の実相を「生老病死の苦に満ちた生」と観じ、「究極のマイナス思考から出発する」ことで全てを受け入れる。

そして、苦のなかで垣間見せる人の優しさや自然の素晴らしさのなかに、生きる意味を見いだせるのではないかと問いかけている。

「人はみな大河の一滴」・・・人はだれでも、一滴の水となり、川を下り、海に注ぎ、やがて雲となってまた地上に降り注ぐという大きな循環のなかにある。


そう考えれば、苦に満ちた生にも幸福なときを見出すことができるという。

モモ

ミヒャエル・エンデ(著),大島 かおり 訳 岩波書店

見知らぬ街の円形劇場の廃墟に、ある日突然あらわれた「モモ」という名の少女を通して、「時間どろぼう」に支配された現代社会の余裕のなさ、味気なさと、そこから生きた時間を取り戻す姿を描いた物語である。

モモがやってきてからは、モモがそこにいて、黙って話を聞いてくれるだけで、人々は争いをやめ、幸せになってゆく。

しばらくして「灰色の男」があらわれ、時間を節約し「貯蓄」することを勧める。この「時間どろぼう」は人々から時間を盗んで、「時間貯蓄銀行」の金庫に仕舞い込む。
少しずつ時間を奪われた人々は、余裕を失い、街もすさんでいく。

その後モモの活躍により「時間の花」が取り戻されるが、止まった時間が再び動き出す瞬間の描写が素晴らしい。

「その瞬間に、時間はふたたびよみがえり、あらゆるものがまた動き出しました。
車は走り出し、交通整理のおまわりさんは笛を鳴らし、ハトは飛び、電柱の根元の子犬はオシッコをしました。」


エンデは、そもそも時間とは何か、時間を節約することにばかりとらわれ、失ったものはないか、そういう厳しい問いを投げかける。

そして、ただ話を聞いてあげることで自分の時間を相手に与えるということの価値に気づかされる。

穏やかに流れる「とき」の豊かさと心地よさが伝わってくる本である。

ヒトの壁

養老 孟司 (著) ヒトの壁 (新潮新書 2021)

NHK-TV「まいにち養老先生 ときどき まる」の放送以来、「猫『まる』の飼い主として知られている」養老孟司の2021年の著作。

「人生を顧みて、時々思うことだが、私の人生は、はたして世間様のお役に立っただろうか。
徹底的に疑わしい」

というまえがきで始まり、自身の突然の大病、小学校時代からの思い出、コロナ禍やAIなどの時評、愛猫『まる』との別れなどが綴られる。

「人は本来、不要不急」

「五輪選手の身体は異常値を出す」

「現状は必然の賜物である」

など、意表を突くようなタイトルが続くが、

脳が作り上げた社会に埋没しないこと、

個性の強調よりも共感が大切、

自然の中で体を使うことなど、氏の基本的な考え方は一貫している。

羊の歌

加藤周一(著) 「羊の歌」「続・羊の歌」 岩波新書

評論家 加藤周一氏の半生を綴ったもので、初出は朝日ジャーナルに自伝的小説として連載された。

「羊の歌」は、羊年生まれの加藤氏が、もの心ついてから終戦までを、「続・羊の歌」は戦後から1960年代までを回想している。

戦前・戦後という激しい時代のうねりを基調に、「平均的な日本人として生きてきた」という加藤氏の人生と社会の姿が描かれている。

加藤氏の文章は緻密で論理的な構成により入試問題などによく使われるが、一方で、五感を活かした詩情性の豊かさという側面も魅力である。

「高原牧歌」で描かれる晩夏の浅間高原の姿と妹への愛情や、「冬の旅」で描かれるオーストリアの街の冬の情景など、きわめて文章が美しい。

「…すすきの穂が私たちの背よりも高く伸び、夕方の風が俄かに肌寒くなり、夏のまさに終ろうとするときに、高原はもっとも微妙なものにみちていた。私と妹は、恋人たちのように、寄添いながら、人気ない野原に秋草の咲き乱れるのをみ、澄み切った空気のなかで、浅間の肌が、実に微妙な色調のあらゆる変化を示すのを見た。夜になると遠い谷間の方から坂にさしかかった蒸気機関車の噴ぎはじめるのが聞え、坂をのぼりきったときに変る音、駅にとまるときの車輪の乱みまでが、静まりかえった夜を通して、はっきりと聞えてきた。その汽車のなかの人々と、私たちとを隔てていた途方もなく広い空間のなかで、眼をさましていたのは、私たち二人だけであったかもしれない。もし私がこの世の中でひとりでないとすれば、それは妹がいるからだ、と私はそのときに思った。私は高原のすべてを愛していたが、それ以上に、妹を愛していたのだ。」(「羊の歌」 高原牧歌より)

「その町の建物の屋根は低くできていて、厚い壁に抉った窓は、舗道に積った雪とすれすれのところに開いていた。二重窓のくもった硝子、黄色く惨んだその窓の光、かすかに聞える内側のざわめきと提琴の歌……街燈のつくる明るい円錐のなかで、降りしきる雪の粉は輝き、風に流れ、絶えまなく舞っていた。それほど美しい雪の町を私は見たことがない、そのまえにも、そのあとにも。一杯の白ぶどう酒とひとりの娘は、私の世界を無限に美しくしていた。」
(「続・羊の歌」冬の旅 より)

私がこの本と出合ったのは、大学時代にフランス語の先生から夏休みの課題として与えられたとき。
戦後を代表する評論家で博覧強記、百科事典の編集長を務め、数か国語に堪能な加藤氏は、決して「平均的な日本人」ではないかもしれないが、多くの人の共感を集め、いまでも岩波新書の中でロングセラーを続けているのも納得できる。